東日本大震災の時ボランティアに行った時の事を語ってみる

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体験談

2012年東日本大震災という津波や原発事故などによる悲劇が起きました。

令和に入った現在でも立ち直り切っていない地域もある事でしょう。

今回はそんな被災して日が経っていない時に個人的に行ったボランティアに

ついて行った時のお話しを交えつつ、その中で何かを感じ取ってもらえたらと思います。

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東日本大震災とは

伊勢湾台風と違い記憶にまだ新しい分類になります(2019年現在)ので

殆どの方はご存知かと思いますが簡単に概要を説明しておきます。

地震が起きたのは2012年3月11日です。

宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル (km)(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24 km)を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した[5]。地震の規模はモーメントマグニチュード (Mw) 9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。
震源域は広大で、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500 km、東西約200 kmのおよそ10万平方キロメートル (km2) に及ぶ[6][7]。最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した[8]。観測された最大加速度は宮城県栗原市のK-NET築館 (MYG004) 観測点で、2933ガル[9]

Wikipedia東日本大震災の項目より

とにかく当時最強クラスの震度で横揺れが激しい地震でしたが

何が一番問題だったかと言えば原発事故による放射線漏れと津波による水害でしょう。

この2つにより町は海となり、原発事故のレベルは歴代でもチェルノブイリの原発事故に

匹敵すると言われている大事故とも言われてます。


令和になった現在でも特定エリアは放射線の影響で近づく事を許されていません。

マッサージのボランティアに行った時の内容

被災が起きてからひと月近く経ったある時、知人によりボランティアのお誘いを受けました。

タイミング的に資格習得してこれから仕事を探すタイミングだった為

丁度手が空いてたのもあり2つ返事でついて行くことにしました。

他の方から物資だけ受け取って代表気分で向かい、交代で車を運転しましたが

筆者の住んでいるエリアからですと7時間前後は余裕でかかる長旅でした。

ボランティアに行った場所は茨城県水戸市

知人が色々ボランティアを求めて場所を探した結果、上記のエリアになりました。

被災エリアからは距離があるものの、こちらに逃げてきた方々は原発エリアドストライクで

隣町の富岡町という所から避難された方々でした。

車で寝泊まりする気ではいたのですが、部屋が空いていると言う事だったので

ご厚意に甘えて宿泊はご一緒させてもらう事になりました。

実際の被災地から逃げ延びてきた方は想像しているより前向きだったがマッサージしてみると・・

中に入って被災にあった方々とご挨拶したわけですが、何が一番びっくりしたかと言うと

想像では落ち込んでいるかと思ったら思ったより前向きだったと言う事ですね。

話を聞くと落ち込んでいる場合じゃないから気持ちだけでも前向きに行きたいと言っていました。

挨拶一つでもすれ違うたびにしてみたり、屋根の上からでもこんにちわ。

そこには当たり前のことだけれども失われつつある何かが戻って来た気がしました。

そういう状況だからなのか、それとも県民性が温かいのかはわかりませんが・・

本来の目的であるマッサージをボランティアで希望者から順に行っていきました。

それぞれ気になる所をほぐして少しでも気分が良くなってもらえたらと施術をしてたのですが

揃って被災者の方々は肩甲骨の間の特定の場所(経穴でいう膈兪穴)が

共通して硬かったのが気になりました。


膈兪穴というのはストレスに反応するとも言われている場所の一つでもありますので

表面上元気にふるまっていてもやはり身体は正直なんだなと実感しながら

しっかりとほぐして和らげるように努めました。

逃げる時に一番必要だと思ったのは通帳だという

被災された方と一緒に食事をしながらお話しする機会があったのですが

逃げる際一番必要だったのは通帳、つまりお金だと言いました。

物資などは大分援助のお陰で充実してきたので助かっているものの

お金がないとそこから何かしようにも至難だと言っています。

取りに行きたい所なのですが、被災者の住居が原発事故の隣町である富岡町だったので

放射線的に入る事すら許されないのです・・

周辺の被災状況を覗いてみると

本当は原発エリアギリギリまで行ってみようという話も出たのですが

流石に放射線の事を考えると危険だったので、可能な範囲までで帰る前に周ってみました

まだ安全と言われるエリアだけでもその悲惨な状態が垣間見る事が出来ました。

  • 標識の鉄パイプ?がほぼ90度に曲がっていた
  • 窓ガラスが露出した建物がアクション映画の逃走シーンのようにパンパン割れていた
  • 海岸の水が浜どころか陸地まで上がっているであろう跡が残っていた
  • 家の瓦がずれていたり、建物が古いものに至っては家そのものが潰れていた

茨城県だけでもこれだけあったので震源地エリアである宮城県などは

更に酷かったと想像にたやすいですね・・

ただ、耐震に関しては古い建物以外は阪神淡路大震災の教訓が生かされていたなとも

同時に感じました。

まとめや感想など

知人は思い切って行動に移したことが素晴らしいと思いつつも

とてもいい機会をくれたことに感謝しています。

実際被災地に行って思った事を箇条書きですが述べていくと

  • 現地の方は明るく前向きだったが身体は正直だった
    (マッサージすると共通して肩甲骨の間の特定の場所が硬くなっていた)
  • ボランティアに行った場所は恵まれている方らしく
    他の場所は殆どおにぎりと漬物ばかりだった模様
    (実際2日だけでしたが同じような食事を過ごしていたら他のおかずなどが恋しくなった)
  • 逃げる時はすぐに通帳を持ち出せる状態を作った方がよさそう
    (被災者は富岡町という原発エリアだった為、取りに帰れない)

思いつくいくつかだけでもかなり重要な事を知ったり教えて貰った次第です。

今後どのような被災が来るかわかりませんし、

100年前からいつ来てもおかしくないと言われている南海トラフの存在も怖いです。

実際なってみないとわからない事は沢山ありますが、備えれる事は備えていきたいですね!

2019/10/12にも台風19号の被害がかなり酷い地域もあります。

状況は違うかもしれませんが被害が甚大なのは一緒なので

少しでも早く回復できる状態に皆でしていきたいものですね・・

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